ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 和い話い広場 > 喜連川(きつれがわ)の名前の由来について

喜連川(きつれがわ)の名前の由来について

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年8月17日更新

喜連川(きつれがわ)の名前について

喜連川(きつれがわ)という地名はどこから来たのでしょうか。正確な記録は残っていません。
昔から伝わるのは

「狐川」から「喜連川」系

 1.喜連川地区を流れる氾濫の多い荒川は、地元で「狐川」とも呼んだから
 2.荒川上流に生えていた槻(けやきの古称)の大木に九尾のキツネが住み着き、
   この地域を「狐川」と呼んだから
 3.荒川の近くにキツネがたくさん住んでいたから

その他

 4.荒川と内川が来て連なる(1つに合わさる)ところから「来連川」そして喜連川になった
 5.喜連川足利氏初代の国朝が、この地に移る際に喜連川にした

などがあります。実際の古文書には

「狐河」(1465(寛正6)年、足利義政御内書)
「喜連川」(1536(天文5)年、二階堂続義宛行状)
「来烈川」(1545(天文14)年、宇都宮俊綱感状)

などと書かれ、中世の段階では呼び名に合う字をあてていたようです。

あの慶次(けいじ)も狐川(きつねがわ)

『前田慶次道中記』というものがあります。前田利家の義理の甥で、戦国時代のアウトロー(かぶき者)で有名な
前田慶次が1601(慶長6)年に米沢の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に会いに行きながら記した旅日記です。
その中に喜連川のことが書いてあります。内容は、

 「狐川とはどう書くのか。」と聞くと「喜連川と書くのだ。昔この里に御所を作り始めた時に、
 将来を祝して、喜び連ねる川と書いたので。」と語ってくれた。

というものです。御所の作られたのがいつの時代を指すかは分かりません。
ちなみに、1911(明治44)年に発刊された『喜連川町誌』の狐川の紹介に「塩屋ノ里ヲ狐川ト呼ビタルニ
塩屋惟広コノ地ニ移ルニ及ンデ来連川ト称セシヲ来字喜字ニ改メタリ」と書いてあります。

決定打は公方様(くぼうさま)?

1590(天正18)年に後の喜連川足利氏となる小弓公方(おゆみくぼう)の頼純(よりずみ)、国朝(くにとも)親子が
喜連川に来ます。
古文書の中に「三千石ハ本地 喜連河殿」(1602(慶長7)年『譜牒余禄』)と書かれたものがあります。
このように、喜連川に来た頼純、国朝親子が喜連川を名字をしてから、様々な当て字が「喜連川(河)」に
統一されたと考えられています。

歴史あそびBook1 小さな大大名喜連川足利氏その城下町の歴史と文化より