喜連川(きつれがわ)という地名はどこから来たのでしょうか。正確な記録は残っていません。
昔から伝わるのは
「狐川」から「喜連川」系
その他
などがあります。実際の古文書には
「狐河」(1465(寛正6)年、足利義政御内書)
「喜連川」(1536(天文5)年、二階堂続義宛行状)
「来烈川」(1545(天文14)年、宇都宮俊綱感状)
などと書かれ、中世の段階では呼び名に合う字をあてていたようです。
『前田慶次道中記』というものがあります。前田利家の義理の甥で、戦国時代のアウトロー(かぶき者)で有名な前田慶次が1601(慶長6)年に米沢の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に会いに行きながら記した旅日記です。
その中に喜連川のことが書いてあります。内容は、
「狐川とはどう書くのか。」と聞くと「喜連川と書くのだ。昔この里に御所を作り始めた時に、将来を祝して、喜び連ねる川と書いたので。」と語ってくれた。
というものです。御所の作られたのがいつの時代を指すかは分かりません。
ちなみに、1911(明治44)年に発刊された『喜連川町誌』の狐川の紹介に「塩屋ノ里ヲ狐川ト呼ビタルニ塩屋惟広コノ地ニ移ルニ及ンデ来連川ト称セシヲ来字喜字ニ改メタリ」と書いてあります。
1590(天正18)年に後の喜連川足利氏となる小弓公方(おゆみくぼう)の頼純(よりずみ)、国朝(くにとも)親子が喜連川に来ます。
古文書の中に「三千石ハ本地 喜連河殿」(1602(慶長7)年『譜牒余禄』)と書かれたものがあります。
このように、喜連川に来た頼純、国朝親子が喜連川を名字をしてから、様々な当て字が「喜連川(河)」に統一されたと考えられています。
歴史あそびBook1 小さな大大名喜連川足利氏その城下町の歴史と文化より