荒井寛方
仏画家として日印文化交流の先駆者として、そして文化財保存の「行者」として、明治・大正・昭和の時代に日本美術院を舞台に活躍した、さくら市出身の荒井寛方の画業を魅力ある作品や資料を通じて紹介しています。
略歴
1878年 栃木県氏家町(現在のさくら市)に生まれる
1899年 浮世絵風俗画の水野年方に入門
1902年 雑誌『国華』で仏画模写に従事
1907年 第1回文展に入選。その後も文展で活躍
1914年 再興日本美術院に横山大観らとともに参加
1916年 タゴールに招かれてインドに渡る。アジャンター壁画を模写
1918年 帰国
1940年 法隆寺金堂壁画の模写事業に参加
1945年 模写事業途中で急逝
作品紹介
荒井寛方筆鬼子母(きしぼ)
昭和11年(1936)年
紙本着色額(襖)285.0×200.0
ミュージアム氏家
第1回新帝展
本図は「新帝展」第1回展に出品したものです。鬼子母は、左手に子どもを、右手に吉祥果といわれるざくろを持ちます。ざくろは、実が多くその意味からも子授け、子孫繁栄の意味があります。顔は柔和で腕に巻かれた臂釧(上腕の腕輪)、胸飾りは美しく、宝冠には白い花が一層女性らしい優しさを演出しています。
まとう濃い朱の裳は、子を慈しむ母の愛の証のようにも見えます。鬼子母の周りに配されている、ざくろの樹木で戯れる子どもたちはキューピットのようにも見え、また全体の構成はヨーロッパで見られる聖母マリアがキリストを抱き周囲を衆生が囲むスタイルと酷似しています。
寛方・タゴール平和記念公園
荒井寛方の生家跡
荒井寛方(1878~1945)はこの地に生まれ、日本画家を目指して上京しました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖ダゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の懸け橋となりました。タゴールとはその後も親交がつづき、現在インドにおいて寛方とダゴールへの畏敬の念はますます深まっています。寛方・タゴール平和記念公園は、寛方とタゴールの偉業を偲び、二人の友情を永遠に記念するため、寛方の生家跡に整備されました。